【セサミの呼び声】ーThe Call of Sesameー

ロースクール生が、司法試験までの危機的状況から多少現実逃避をしつつ書く日記。 かなり長い間、文章を書く練習をしていないので文章力皆無です。 これを機に練習していきます。

差別的行使条件付新株予約権無償割当ての適法性

問題の概要

 ちょうどさっきまで会社法の問題を問いてました。せっかくなので、論証化して残しておくことにします。

 設問はお馴染みブルドックソース事件。一部株主による敵対的買収に対する対抗策として、会社が「非適格者に割当てられた者の新株予約権の行使を封じた」差別的行使条件付新株予約権無償割当てを行うのですが、買収者(非適格者)はこれを差止めることができるかについて論じる問題です。

答案構成

 答案では大きく分けて、以下の内容を書かなければならないと思います。

 ① 差止の根拠条文の問題(会社法247条の類推)
 ② 247条1号該当性
  ⑴ 株主平等原則(109条1項)の適用の有無
  ⑵ 株主平等原則違反の検討
 ③ 247条2号該当性

 ③の2号「著しく不公正な方法」該当性を書くべきかは悩みどころですが、一応判例(最決H19.8.7)でも触れられているので答案上も簡単に触れたほうがよいかと思います。

論証

新株予約権無償割当ての差止めの可否

 新株予約権無償割当てが、違法、あるいは著しく不公正になされた場合に、新株予約権の無償割当てを差止めることができるか。募集新株予約権の発行差止の規定(247条)を類推適用できるかが問題となる。
 この点、新株予約権の無償割当ては、株式の分割にも類似する制度であるから、募集新株予約権の発行の場合とは異なり差止はできないと解する見解もある。しかし、新株予約権の無償割当ての場合であっても、差別的行使条件を付す等により株主の地位に変動をもたらす場合も考えられ、このような場合には募集新株予約権の発行の場合同様に事前の救済を与える必要性が高い。
 したがって、新株予約権無償割当てについても、それが株主の地位に実質的変動を及ぼす場合には、会社法247条が類推適用されると解すべきである。

 この論点に関連して、新株予約権が発行されてしまった後に新株予約権行使に基づく株式発行を差止めることができるかという論点もありますね。裁判例(東京高決H20.5.12)は、差止を認めるているようですが、いまいち根拠がつかめませんでした。理解不足です。

★差別的行使条件付新株予約権の無償割当てと株主平等の原則

 差別的行使条件付新株予約権の無償割当ては株主平等原則(109条1項)に反し違法か。まず、新株予約権無償割当てに株主平等原則の趣旨が及ぶかが問題となる。
 この点、新株予約権無償割当てが新株予約権者の差別的な取扱を内容とするものであっても、これは株式の内容等に直接関係するものではないから、直ちに株主平等の原則に反するということはできないとも思える。しかし、株主は、株主としての資格に基いて新株予約権の割当てを受けるのであるから(278条2項)、株主平等原則の趣旨は新株予約権無償割当てにも及ぶと解すべきである。
 では、差別的行使条件付新株予約権の無償割当ては株主平等原則に違反するか。
 思うに、株主平等原則も究極的には株主の利益を図ったものであるところ、株主の平等を強調しすぎるあまり会社の利益がき損され、ひいては株主全体利益が害されてしまうのであれば本末転倒である。そこで、特定の株主による経営支配権の取得に伴い会社の企業価値がき損され、会社の利益ひいては株主の共同の利益が害されるような場合には、その防止のために当該株主を差別的に取り扱ったとしても、当該取扱が公平の理念に反し、相当性を欠くものでない限り、これを直ちに同原則の趣旨に反するものということはできないと解すべきである。

 この論証には、上記⑴と⑵の論点が含まれています。
 そもそも、新株予約権の無償割当ての決定は、株主総会による場合と取締役会による場合がありますが(278条3項)、株主総会によって新株予約権無償割当てが決定されている場合は、その株主総会の意向を尊重するというのが判例の考え方のようです。ただし、これは株主総会の決定過程に公正さを疑うような事情がなく、かつ株主の圧倒的支持を得ている場合の事例なので、注意が必要です。

 247条2号該当性については敢えて論証化しませんが、主要目的ルール的なことを書いて、企業価値の毀損を防ぐ目的かという点を検討すればよいかと思います。

検討

 少し話がずれてしまうのですが、既に発行された新株予約権の行使に基づく新株発行を差し止めようとするときの根拠条文がよくわかりませんでした。

 すなわち、新株予約権の発行手続きに247条の差止事由があるものの、既に新株予約権無償割当ての効力が生じてしまったために247条による差止ができないとき、新株予約権の行使に基づく株式発行を差止める必要がありますが、その根拠条文は247条になるのか210条になるのか。
 
 東京高決H20.5.12の判例評釈等を読んでみると、210条類推適用説が有力なようですね。商事法務No.1944の97〜98頁にそれっぽいことが書いてあったので抜粋しておきます。

 この論点に関しては、ニレコ事件原審決定(東京地決平十七・六・一判例タイムズ一一八六号二七四頁)でー傍論的にではあるがー東京地裁が、「新株予約権の行使に基づく新株発行の過程において、会社の機関の行為が必要とされているときには、新株発行により不利益を受けるおそれのある株主は、その会社の機関を捉えて新株発行の差止めを求めることが許されると解する余地がある」と述べる点が注目される。差止めの対象はあくまで会社の機関の行為であり、その意味で形成権たる新株予約権の行使による株式の発行は原則差止められないものの(中略)、例外的に非適格者への差別的取扱いという機関(取締役会)の行為が介在する場合には、法二一〇条の類推適用の余地を認めるものであり、効力発生後の新株予約権につき特殊の新株発行の差止めを認める法律構成としては妥当なものと評価される。

 結局のところ、差止めの対象となる「機関の行為」を観念できるかがポイントになってきそうです。さらに、上記評釈は、

 機関の行為(特定株主への差別的取扱い)が新株予約権の発行(割当て)行為と別の時点でなされているか、あるいは同時になされているかは、法二一〇条を類推適用するに当たり決定的要因ではなく、要は、新株予約権の行使可能期間の開始前のどこかの時点で、差別的取扱に関する機関の行為がなされていれば、当該行為をとらえて、法二一〇条の類推適用による特殊の新株発行の差止めが可能とする余地がある。

としています。

 なかなか難しい論点ですが、設問事例で新株予約権の割当ての効力がすでに生じてしまった後は、247条の論証を書くのではなく、こちらの議論を行う必要があります。
 新株予約権発行無効の訴えを本案として、それを前提に新株発行の差止めの仮処分を狙うというのもひとつの手だとは思いますが・・。どうなんでしょうね。

2年という時間

ここ2年の過ごし方

 とても久しぶりにブログを更新します。
 かなり長い間、ブログに触れていませんでした。一度書かなくなるとズルズルといちゃいますね・・・。
 凡そ2年もの間更新を怠っていたわけですが、近況を報告すると、一応目標のロースクールに合格し、既修1年目を無事終え、今年の4月からロースクール3年になります!

 正直なところ、ロースクールに合格後既修1年目が終わるまでそれほど高いモチベーションを維持していたわけではありません。むしろ、日々の勉強もダラダラと同じページに目を通すような集中力のかけらもないようなもので、しっかりとした質と量を伴った勉強するのは試験前1周間くらい。ほんと酷い生活を送ってます。
 それでも、成績は悪くはないです(不思議です)。まあ「優秀なロー生」からは程遠い感じですが・・・。
 
 この体たらく。激ヤバロースクール生の鑑みたいな生活送ってます。どうしてこうなってしまったのでしょう。2年の間、”一応”法律を学んできたのでそれなりに法的知識は増えたのだと思いますが、僕の実感としてはここ2年での収穫は無に等しいです。

僕自身がこの2年間に全く納得していません

 この2年何をやっていたのだろう。全く充実感のない2年間でした。

 2年という時間はあっという間でした。でも、2年という時間は決して短くありません。僕の残りの人生が60年と仮定して、2年という時間はその30分の1を占めます。残された僅かな時間のうち3%相当を溝に投げ捨て、何も得ることができなかった。そう考えると、自分が漫然と過ごしていた2年間が恐ろしくなります。 
 

ブログの再開

 どれくらいこの2年間が充実していなかったのかというと、あまりにも充実感がなくこの2年の記憶がほとんど僕にはないくらいです。
 ロー生という名のニートといっても過言ではないです。

 僕自身、いま自分がどういう将来像を持っていて、何をしたいのかもよくわかっていません。それは僕が勉強に真剣に取り組んでこなかった結果でもあり、また勉強に真剣になれない遠因でもあるのかもしれません。

 そこで、再び、日々の記録をここに残していくことにしたいと思います。文字にすることで、自分の考えを再認識し、もっと自分自身について深く知ることができるのではと思っています。法律の世界で何をしたいのかもう一度ゆっくり考えながら、日々の勉強・出来事・考えについて記録していければと考えています。
 

大阪市長がタトゥーを入れている公務員を懲戒処分に処すことができる理由について考えてみた

少し前に、橋本大阪市長が刺青をいれた大阪市職員に懲戒処分を科すとの発言をし、一時期話題になりました。
この、「刺青を入れた市職員に対して懲戒処分を科せられるか」という問題は、法律論的には非常に興味深いので、少し検討してみたいと思います。

僕みたいなペーペーの法学部生が旧司法試験に合格し弁護士としてご活躍された橋本市長に意見するなど痴がましいにも程がありますが、僕なりに考えてみます。

タトゥーは憲法上保障される人権か

いくら民主的に選挙で選ばれ、大阪市政について包括的な権限を持った橋本市長でも、憲法に違反することはできません。
憲法99条には「公務員の憲法尊重擁護義務」がうたわれており、市長も当然憲法に拘束されます。

そして、憲法13条は以下のように規定します。

憲法13条(幸福追求権)
すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

まず、刺青を入れる権利が13条の幸福追求権の範囲内か問題となるわけですが、そもそも幸福追求権とはどのようなものでしょう。

幸福追求権の範囲について、学説は大きく二分されます。

  • 人格的利益説……13条で認められる人権は、人格的生存に不可欠な利益を内容とするものに限られる。
  • 一般的行為自由説……13条は広く一般的行為の自由を保障している。

人格的利益説では、13条はあらゆる自由を保障したものではなく、人格形成にとって重要な自由を保障したものだと考えます。
一方で、一般的行為自由説は、あらゆる自由を13条が保障していると考えるのです。

たとえば、プライバシー権のような重要な権利はどちらの説でも13条が保障していると考えるのですが、「飲酒をする自由」や「散歩をする自由」となってくると意見が分かれます。
人格的利益説だと、「13条はそんなしょうもない自由は保障していない!」と主張するでしょうし、一般的行為自由説だと「あらゆる自由が13条で保障されているんだから、散歩の自由だって保障されている!」というでしょう。

人格的利益説の根拠は「人権のインフレ化」を防ぐことです。あらゆる自由を人権として認めると、人権がインフレ化して逆に人権保障が弱められるのではないかと危惧するのです。
一方、一般的行為自由説は、「人権保障の範囲を限定することこそが人権を弱めているのであって、個人が国家から自由であることが人権の本来のあり方だ。自由の重要性によって保障の程度を変えれば、インフレによる人権保障の弱体化もおきない」と反論するわけです。

さて、それでは本題の「刺青を入れる自由」はどうでしょうか。この場合、僕はどちらの説をとっても13条の保障内に入ると思います。

一般的行為自由説だと、あらゆる自由が13条で保障されていると考えるわけですから、当然「刺青を入れる自由」も13条が保障しています。

人格的利益説だと、一見すると「刺青を入れる自由」は含まないように思います。
「刺青を入れようが入れまいが、別に人格には影響ないじゃん。そんなの単なるオシャレの一環でしょ?散歩とどう違うの?」と思われるかもしれません。
では、一つ例を考えてみましょう。

ある女性が背中に「仏様と仏様の手の中に眠る二人の赤ん坊」の刺青をしていたとします。彼女は現在子供が一人いますが、過去に二度流産を経験し、その子供の冥福を祈る気持ちと、ずっとその子供の十字架を背負う覚悟で刺青を入れていました。

上の事例で、女性にとって刺青は人格的な利益だといえないでしょうか。刺青を入れるという行為には、さまざまな背景や覚悟が裏にある場合があります。たとえオシャレでいれる場合であっても、刺青は容易にはとれないという一種の覚悟を要する行為である点で、自己の個性を実現させ人格を形成する自己決定権の一部とはいえないでしょうか。

そう考えると、刺青も人格形成に関わる利益であり、13条が保護する権利に含まれるのです。

「公共の福祉」による制限

さて、刺青を入れる自由が13条で人権として保障されているなら、原則として制限は許されません。
ただし、「公共の福祉に反する」場合には例外的に制限が許容されます。

刺青の事例でいう「公共の福祉」は、おそらく「タトゥーが暴力団などの反社会的気風を連想させ、公務の信頼を失墜させてしまう」ということを指すのでしょう。
つまり、刺青を入れることは原則として人権の保障内に入るけれども、公務員が刺青をやれば、市民が刺青によって反社会的気風を感じ取り公務への信頼が害されて公共の福祉に反するので、刺青は制限できる、という理屈になるのだと思います。

まず、ここでは現代社会において、刺青が実際に反社会的気風を感じさせるか」ということが一つのテーマになります。

いまや刺青なんて暴力団でなくても全然入れている人はたくさんいます。歌手やスポーツ選手はもちろん、一般的な大学生も善良な市民も入れている人は多いです。
この状況で「刺青が暴力団を連想させて公務の遂行に支障をきたしたり、公務への信頼が確保されない」と主張するためには、それなりの理由と根拠が必要になってくるでしょう。
オシャレ感覚で刺青を入れる時代であれば、刺青をみても「こいつ・・・暴力団か!?」とは思わないわけですから、そういう人が公務をやっていても特に不利益は生じないからです。

なので、「レディーガガだって刺青入れてるじゃないですか」という記者の質問に、橋本氏が「それは歌手だからいいのですが、公務員は別です」と返すのは少し論点がずれていると思います。
刺青が善良な市民でも入れる時代なのであれば、刺青を入れている職員が公務を遂行していても公務への信頼は害されないということです。
とすれば、そもそも職員が刺青を入れることは公共の福祉に反しないのであって、このような職員に対し懲戒処分を下せば立派な人権侵害です。

民間企業ですら処分するんだから、公務員も処分するんだ。という理論

民間企業の例を挙げて、「民間でもこうだから、公務員でもこうするのは当たり前」という論理を橋本氏はよく使いますが、残念ながらこれは理にかなっていません。

結論から言わせてもらえば、民間企業が刺青を入れた社員を解雇しても憲法違反にはなりませんが、国家や市町村が刺青を入れた職員を解雇すれば憲法違反です。

理由は簡単で、憲法は国家・地方公共団体を拘束する法であって、民間企業は憲法に拘束されないからです。

実際に、最高裁判例昭和48年12月12日(三菱樹脂事件)で、最高裁は「憲法第三章の規定は、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」と述べています。

憲法はそもそも国家的権力から国民の人権を守るために、国民が国家に突き付けた法ですので、本来的に国家を拘束するわけです。
なので、憲法の適用を受けない民間企業が刺青を禁止することは許容されますが、人権保護に最大の注意を払わなければならない国家は刺青の禁止をしてはいけない、というのが憲法の論理です。

このように考えると、刺青を理由に何らかの懲戒処分を行えば、憲法違反の可能性は高いと考えます。

このエントリーをはてなブックマークに追加