【セサミの呼び声】ーThe Call of Sesameー

ロースクール生が、司法試験までの危機的状況から多少現実逃避をしつつ書く日記。 かなり長い間、文章を書く練習をしていないので文章力皆無です。 これを機に練習していきます。

定型化するプレゼンテーション

大学にいると、人前で発表やプレゼンをすることが多々あります。
大学に入るとまず最初に法的三段論法の考え方をたたきこまれ、プレゼンの方法についても先生から色々と教わります。

法的三段論法


1. 法規範を一つ一つの要件と効果に分解し、それぞれ解釈する。

2. 生活関係を一つ一つの事実に分解し、法の要件に当て嵌める。この当て嵌めが成功すれば、事実は要件に包摂されたという。

3. すべての事実が要件に包摂されたら、効果が明らかになる。

法学方法論 - Wikipedia

法律的議論をするときも大体やり方は決まっています

まずは問題提起をし、どのような点が問題になっているのかを明らかにして、そこで対立している価値観や、論理的な難点を提示します。そして、対立する価値観同士の落とし所をみつけたり、頑張って論理を組み立てて結論へと持っていきます。

法律論以外の授業においても大体プレゼンの仕方は決まっています。

まずはテーマに関連した調査や現状を報告して、そこに内在する問題を指摘し、解決法などを示す。

面接の問答の答え方も大体決まっています。

質問に対して一言で短く結論を述べる。そして、その結論を支える理由をいくつか述べて、面接官が興味を持ちそうなところを少し詳しめに話す。

やはり長年確立してきただけあって、どれも聞き手が聞きやすいものになっています。

これらの手法のポイントは、いずれも全体の構造がわかりやすく、全体の構造がわかるだけに次に何の話をするのかが相手に予測できるというところです。
聞き手の中にも「お決まりの手法」としてこの手の論理構成が刷り込まれているので、不安感なく聞けるというのもあるでしょう。

たとえば、教育実習を終えた学生が教授に実習の報告をする場面を想定してみましょう。
教授に「教育実習お疲れ様でした。教育現場に行ってみて何か感じたことはありますか?」と聞かれたときに、


「いろんな子供がいるなぁと感じました。もちろんすごくできる子もいれば、全くできない子もいます。僕が授業をやっていても、『こんなのわかってるよ』って顔でみてる子もいれば、ちんぷんかんぷんな子もいるんです。いろんな個性の子がいるというのは当たり前のことだといってしまえば当たり前なのですが、やっぱりそれぞれの個性の合った方法で教育システムを構築するような必要があるように思いますね。」と答えている場合と、


「現在の教育システムでは、それぞれの児童が自らの能力にあった教育を受けることができていないと感じました。『できる子もできない子も皆これをやるんだ』という偏った平等主義が蔓延していて、それぞれの能力にあった成長が阻害されています。まるで自分の能力にあった形で成長していくことそのものが悪いことであるかのように。他の生徒と足並みを揃えさせる現在の制度は変えて、クラス編成や高等教育機関への入学資格等を見直すべきだと感じました。」という場合とでは、プレゼンの手法が全然違うわけです。


前者は自分の経験を中心に語り、そこでふと思ったことを最後に結論として述べているのに対し、
後者はまず最初に結論を述べて、後ろで理由や対策を述べることで結論を補強ないし深めています。

僕が大学で教え込まれてきたプレゼンの手法は後者です。
まず結論を言え、まず問題を提起しろ、と教わってきました。前者の方法だと「最後まで聞かないと何がいいたいのかが全然わからないのでストレスがたまる」のです。

やはり、定型化されたプレゼンは聞きやすいものです。
「だいたいこんなことを次にいうんだろうな」とか「要はこう言いたいんだろ」と聞き手が予測を立てるので、理解しやすいのです。

そして、大学の学年が進み、学生の多くがこのようなプレゼン方法を習得してくると、プレゼンを聞いていて、ふと「つまらないな」と思うようになりました
そういうプレゼンを聞くのに慣れると、もうアジェンダを聞いただけで何が言いたいか予測がついてしまうことがありますし、最後まで発表を聞かなくてもおおよその内容はわかってしまうからです。

そう考えると、「相手に予想がつくようなプレゼン」というのは相手にわかりやすいという点で一見優れてみえるけど、「印象に残りにくい」という側面も有していて、実はそんなにうまいプレゼンではないのかなと最近思いはじめました。


まだ大学に入りたての頃の学生は、結構思い思いの方法で発表していた気がします。
大学1年生のころのゼミで友人がプレゼンした「民法の物権的妨害予防請求権の可否」についてはかなり印象に残っています。

その民法ゼミでの問題は以下のようなものでした。

Aが所有する土地は、車の解体工場に隣接している。Aの土地との境界から13メートルほどの所には、廃材として高く積まれたタイヤの山があり、Aはこのタイヤが崩れて自らの土地を侵害するのではないかとの危惧があった。このとき、Aは工場主に対していかなる請求ができるか。


これについて僕の友人がプレゼンをしていたのですが、
13メートルという距離はタイヤの山が崩れた際に土地を侵害するのに十分な距離であることを証明するために、ペットボトルのキャップを堆く積んで、それを崩して何メートル転がるかを教壇で実験していましたw

いま考えれば何も立証できていない実験ですが、あまりのバカバカしさに笑った記憶があります。

いま考えれば、みんなやりたい放題のプレゼン方法でしたw今となっては、こういうプレゼンをする人はいなくなりました。

みんな定型に則ってわかりやすいプレゼンをしてくれます。結論を最初にいって、理由を箇条書きで教えてくれるので、ある程度聞き逃しても大丈夫なような親切設計です。
でも、そのおかげで僕のような怠慢な学生は、半分くらい別のことを考えながら聞いていたりします。そのため、印象には全く残りませんし、1週間もたてば忘れています。

他方、最初は何を言っているのかわからないプレゼンって、不親切設計でわかりにくいですけど、聞いているうちに、「ああなるほど、そういうことがいいたかったのね」と気づけると、印象には強く残ったりするものです。

自社の商品を世界に発表するときのプレゼンとかも結構不親切設計だったりしませんか
プレゼンをするCEOは、最初に聴衆をつかむ一言を放って、だんだん最後にその言葉の意味が分かってくるような弁論を展開したり、よくわからないことを言って聴衆自身に考えさせたり、夢を語ったりします。やはり、そういうプレゼンは印象に残ります。というより、印象に残るようなプレゼンを心がけているのでしょう。


優れたプレゼンというのは実は「わかりやすいプレゼン」ではなくて「印象に残るプレゼン」ではないでしょうか。

僕は最近では、オランダの医療問題、環境と人権の問題、私人の武力攻撃に対する国家責任などいろんなプレゼンを聞いた記憶がありますが、それらの内容よりも、3年前に聞いた「13メートル先に詰まれたタイヤは結局危険なのだろうか」ということの方が気になって仕方ないのです。

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不作為による殺人

はてなblog「法律パズル」さんから許可をいただき、刑法の問題を転載いたしました。
今まで勉強を疎かにしてきた僕にとっては全くちんぷんかんぷんですが、一応受験生として問題について少し考えてみたいとおもいます。

普段まったく人が通らない山道(道A)に甲が瀕死の状態で倒れていた。甲を見つけた乙は甲を車に収容した。その後、道Aほどではないが人通りの少ない道Bに、乙は甲を棄てた。そのとき乙は甲が死んでもやむを得ないと考えていた。乙の罪責を答えよ。
乙の当初の甲収容意図が、甲の救命であった場合と甲を多少はましな場所へ移動させることであった場合とで、違いは生じるか。乙が、道Aで倒れている甲を無視した場合との違いを意識しつつ答えよ。
法律パズル

さて、本問では乙が道Aに倒れている瀕死の甲を一度車の中に引き受けて道Bに棄てたとされていますが、甲がその後死亡したかは記されていません。また、乙は「甲が死んでもやむを得ない」と考えていたようです。
それでは、この場合、乙にどのような犯罪が成立するのか考えてみたいと思います。

不作為犯の実行行為性

乙は甲の生命を奪うような積極的行為(作為)をしているわけではないが、乙が甲の救命のために求められる行為をしなかったということ(不作為)をもって、乙に殺人罪または殺人未遂罪が成立しないか。
まず、このような「求められている行為をしない」という不作為形態によっても殺人の実行行為と評価できるかが問題となる。
殺人の結果の発生は不作為によっても実現しうるし(たとえば、母親が乳児にミルクを与えないなど)、殺人罪の規定は「人を殺した者」と定めており、「人を殺す」という結果を禁止しているのであって、殺す手段を特定の作為等に限定してはいない。
そのため、不作為によっても殺人の実行行為を行うことはできると解すべきである。
もっとも、「不作為」は結果へと向かう因果に介入せず、ただ結果発生を防止しなかったという消極的な態度であるから、この消極的態度が結果発生への因果を積極的に設定した「作為」と同じ条文で処罰され得るには、それが作為の場合と同価値といえるものでなければならない。そして、行為者に①作為義務を負うべき(結果の不発生を保障すべき)地位ないし事情が認められること、②その作為が容易かつ可能である場合に、かかる同価値性があるといえる。

では、①作為義務はいかなるときに生じるか。
この点、通説的見解はいわゆる形式的三分説(法令、契約、事務管理、慣習、条理)をとり、「義務なく他人の事務をはじめた」(民法697条1項)場合には、その義務の引き受け行為を以って作為義務が生じるとしている。
しかし、あらゆる引き受け行為が作為義務を生じさせると考えると、長時間食事を与えられていない幼児に食事を与えた隣人が作為義務を負ってしまうなど、最初から何もしなければ作為義務は生じないのに、善意で行動をしたがために作為義務が負わされてしまうという不都合が生じる。
そこで、引き受け行為によって作為義務が生じるためには、引き受け行為によって自らが客体に対し排他的支配を獲得し、かつ引き受け行為によって新たな独自の危険を創出した場合に限ると解すべきである(佐伯説)。なぜなら、この場合は引受行為によって独自の新たな危険を創出した以上、その危険について責任を負うべきであるといえるし、自らの排他的支配の元に被害者の生命がある以上、その生命について外部の者が手出しをできる状況になく、被害者の生命が引受者に全面的に依存しているといえるためである。

ここで、本問についてみると、甲はもともと道Aで瀕死の状態で倒れていたが、これを乙が自らの車の中という密室空間に引き受けており、甲の生命について乙は排他的支配を獲得している。また、乙が甲を車の中に引き入れたことによって、もはや甲は乙以外の第三者から発見されて救命されるという道が途絶えたのであり、甲を引き受けた乙は、甲の生命について新たな独自の危険を創出させたといえる。
したがって、乙には作為義務が生じている。

また、問題文中で、乙の甲収容意図が甲救命であった場合と人通りの多い道Bに移転させる意図であった場合で分けて論じるように指定があるが、いずれの場合においても乙の作為義務は否定されない。
なぜなら、甲の救命を目的とした場合であっても、甲を別の場所に移すことを目的とした場合であっても、道Aにおける甲の救出可能性を打ち消し、乙の収容行為が甲の生命に対する新たな危険を創出しているという点で変わりはないためである。

また、問題文中で指摘されている「乙が道Aで倒れている甲を無視した場合」には、乙による甲の引受行為がなく、作為義務が発生しないため、そのまま無視して通過したとしてもその不作為が殺人罪の実行行為を構成することはなく不可罰である。

したがって、乙には作為義務は認められ、また、甲を病院に連れていくなど、甲を救命する措置をとることは可能でありかつ容易であるから、乙がその措置をとらなかったこと(不作為)は殺人罪の実行行為を構成しうる。

そして、かかる不作為が殺人罪の実行行為となるためには、不作為によって甲死亡の現実的・具体的危険性が惹起されていなければならないが、通常瀕死の状態にある者が道路に放置されれば、死亡する危険が相当高いといえるため、乙の不作為はかかる危険性を有するものである。

したがって、乙には不作為による殺人罪の実行行為が認められる。

保護責任者遺棄致死罪との区別

また、本問では前述したように作為義務に違反した乙に不作為による殺人罪が成立しうるケースであるが、同様に保護義務のある者が生存に必要な保護をしないことによって人を死亡させる保護責任者遺棄致死罪(219条)も成立するように思えるため、両罪の区別が問題となる。
不作為による殺人罪の場合は、刑法38条1項上、殺人の故意が必要であるが、保護責任者遺棄致死罪は結果的加重犯であり、結果的加重犯は故意ある場合を含まない。
ゆえに、不作為による殺人罪と保護責任者遺棄致死罪の区別は、殺人の故意の有無によって決すべきである。
本問においては、乙は甲が死ぬかもしれないことを認識し、それを認容したうえ甲を放置しているから、乙には甲殺害の未必の故意がある。

以上より、甲に死亡の結果が発生している場合は乙に殺人既遂罪が、甲に死亡の結果が発生していない場合は殺人未遂罪が成立する。


こんな感じですかね・・・。
なんか文章力のなさが際立ってます(笑)
乙の主観によって犯罪の成立に影響が与えられるのかは自信がありません。

勉強します。

あと、今回の事例は監禁罪が成立しないか迷いました。

新宿びょう打事件

最近刑法の勉強を中心にやってるんですが、刑法の判例ってやっぱり面白いですよね。

民法や訴訟法の判例だと、なんか無機質というか、ストーリーがつかめないんですが、刑法の判例は「このとき犯人はどういう気持ちだったんだろう」とか「なんでこんなことしたんだろう」とか「こんなマンガみたいな事があるのか」と色々、法律的議論とは関係のないところで妄想をふくらませてしまいます(笑)

たとえば、こんな判例があります。

新宿びょう打事件

犯人Ⅹは、暴動を起こすために拳銃を手に入れようと思い、警察官から奪いとることを計画した。そこで、建設用のびょう打銃を改造して手製の装薬銃をつくり、新宿を警ら中の警察官Aに向けて撃ったところ、弾はAの右側胸部を貫通し、道路の反対側を通行していたBの背部に命中した。これにより、Aは加療5週間、Bは2カ月の傷を負った。

最高裁判例昭和53年7月28日

この判例は、最高裁判所が具体的事実の錯誤の事案に対して、法定的符号説と数故意説を使って処理した例として有名な判例です。

法律論はさておき、こういう事案をみると、「なんでわざわざ新宿で?」とか「器用すぎだろ」って突っ込みたくなりませんか?(';')

犯人は暴動を起こすために拳銃を奪うことが目的だったみたいですが、「そのお手製のびょう打銃のほうが性能いいのでは・・・?」って思ってしまいます。

犯人は「このびょう打銃使っといた方がよかったじゃん・・・」とか思わなかったのでしょうか(笑)。

刑法ってこういう判例が結構あるので、普通の読み物として刑法判例集が面白かったりします(^-^)