【セサミの呼び声】ーThe Call of Sesameー

ロースクール生が、司法試験までの危機的状況から多少現実逃避をしつつ書く日記。 かなり長い間、文章を書く練習をしていないので文章力皆無です。 これを機に練習していきます。

不作為による殺人

はてなblog「法律パズル」さんから許可をいただき、刑法の問題を転載いたしました。
今まで勉強を疎かにしてきた僕にとっては全くちんぷんかんぷんですが、一応受験生として問題について少し考えてみたいとおもいます。

普段まったく人が通らない山道(道A)に甲が瀕死の状態で倒れていた。甲を見つけた乙は甲を車に収容した。その後、道Aほどではないが人通りの少ない道Bに、乙は甲を棄てた。そのとき乙は甲が死んでもやむを得ないと考えていた。乙の罪責を答えよ。
乙の当初の甲収容意図が、甲の救命であった場合と甲を多少はましな場所へ移動させることであった場合とで、違いは生じるか。乙が、道Aで倒れている甲を無視した場合との違いを意識しつつ答えよ。
法律パズル

さて、本問では乙が道Aに倒れている瀕死の甲を一度車の中に引き受けて道Bに棄てたとされていますが、甲がその後死亡したかは記されていません。また、乙は「甲が死んでもやむを得ない」と考えていたようです。
それでは、この場合、乙にどのような犯罪が成立するのか考えてみたいと思います。

不作為犯の実行行為性

乙は甲の生命を奪うような積極的行為(作為)をしているわけではないが、乙が甲の救命のために求められる行為をしなかったということ(不作為)をもって、乙に殺人罪または殺人未遂罪が成立しないか。
まず、このような「求められている行為をしない」という不作為形態によっても殺人の実行行為と評価できるかが問題となる。
殺人の結果の発生は不作為によっても実現しうるし(たとえば、母親が乳児にミルクを与えないなど)、殺人罪の規定は「人を殺した者」と定めており、「人を殺す」という結果を禁止しているのであって、殺す手段を特定の作為等に限定してはいない。
そのため、不作為によっても殺人の実行行為を行うことはできると解すべきである。
もっとも、「不作為」は結果へと向かう因果に介入せず、ただ結果発生を防止しなかったという消極的な態度であるから、この消極的態度が結果発生への因果を積極的に設定した「作為」と同じ条文で処罰され得るには、それが作為の場合と同価値といえるものでなければならない。そして、行為者に①作為義務を負うべき(結果の不発生を保障すべき)地位ないし事情が認められること、②その作為が容易かつ可能である場合に、かかる同価値性があるといえる。

では、①作為義務はいかなるときに生じるか。
この点、通説的見解はいわゆる形式的三分説(法令、契約、事務管理、慣習、条理)をとり、「義務なく他人の事務をはじめた」(民法697条1項)場合には、その義務の引き受け行為を以って作為義務が生じるとしている。
しかし、あらゆる引き受け行為が作為義務を生じさせると考えると、長時間食事を与えられていない幼児に食事を与えた隣人が作為義務を負ってしまうなど、最初から何もしなければ作為義務は生じないのに、善意で行動をしたがために作為義務が負わされてしまうという不都合が生じる。
そこで、引き受け行為によって作為義務が生じるためには、引き受け行為によって自らが客体に対し排他的支配を獲得し、かつ引き受け行為によって新たな独自の危険を創出した場合に限ると解すべきである(佐伯説)。なぜなら、この場合は引受行為によって独自の新たな危険を創出した以上、その危険について責任を負うべきであるといえるし、自らの排他的支配の元に被害者の生命がある以上、その生命について外部の者が手出しをできる状況になく、被害者の生命が引受者に全面的に依存しているといえるためである。

ここで、本問についてみると、甲はもともと道Aで瀕死の状態で倒れていたが、これを乙が自らの車の中という密室空間に引き受けており、甲の生命について乙は排他的支配を獲得している。また、乙が甲を車の中に引き入れたことによって、もはや甲は乙以外の第三者から発見されて救命されるという道が途絶えたのであり、甲を引き受けた乙は、甲の生命について新たな独自の危険を創出させたといえる。
したがって、乙には作為義務が生じている。

また、問題文中で、乙の甲収容意図が甲救命であった場合と人通りの多い道Bに移転させる意図であった場合で分けて論じるように指定があるが、いずれの場合においても乙の作為義務は否定されない。
なぜなら、甲の救命を目的とした場合であっても、甲を別の場所に移すことを目的とした場合であっても、道Aにおける甲の救出可能性を打ち消し、乙の収容行為が甲の生命に対する新たな危険を創出しているという点で変わりはないためである。

また、問題文中で指摘されている「乙が道Aで倒れている甲を無視した場合」には、乙による甲の引受行為がなく、作為義務が発生しないため、そのまま無視して通過したとしてもその不作為が殺人罪の実行行為を構成することはなく不可罰である。

したがって、乙には作為義務は認められ、また、甲を病院に連れていくなど、甲を救命する措置をとることは可能でありかつ容易であるから、乙がその措置をとらなかったこと(不作為)は殺人罪の実行行為を構成しうる。

そして、かかる不作為が殺人罪の実行行為となるためには、不作為によって甲死亡の現実的・具体的危険性が惹起されていなければならないが、通常瀕死の状態にある者が道路に放置されれば、死亡する危険が相当高いといえるため、乙の不作為はかかる危険性を有するものである。

したがって、乙には不作為による殺人罪の実行行為が認められる。

保護責任者遺棄致死罪との区別

また、本問では前述したように作為義務に違反した乙に不作為による殺人罪が成立しうるケースであるが、同様に保護義務のある者が生存に必要な保護をしないことによって人を死亡させる保護責任者遺棄致死罪(219条)も成立するように思えるため、両罪の区別が問題となる。
不作為による殺人罪の場合は、刑法38条1項上、殺人の故意が必要であるが、保護責任者遺棄致死罪は結果的加重犯であり、結果的加重犯は故意ある場合を含まない。
ゆえに、不作為による殺人罪と保護責任者遺棄致死罪の区別は、殺人の故意の有無によって決すべきである。
本問においては、乙は甲が死ぬかもしれないことを認識し、それを認容したうえ甲を放置しているから、乙には甲殺害の未必の故意がある。

以上より、甲に死亡の結果が発生している場合は乙に殺人既遂罪が、甲に死亡の結果が発生していない場合は殺人未遂罪が成立する。


こんな感じですかね・・・。
なんか文章力のなさが際立ってます(笑)
乙の主観によって犯罪の成立に影響が与えられるのかは自信がありません。

勉強します。

あと、今回の事例は監禁罪が成立しないか迷いました。